誰かを愛するというのは、
相手に敬意を払うことであり、
搾取することではない。
誰かを愛することは、
いかなる見返りも期待せずに、愛を、
そして自分が持っているすべてのものを
相手に与えるということだ。
そこに少しでも動機があったら、
それは狡猾さであり、情欲だ。
感謝を求めることさえ間違っている。
愛のために愛して初めて、
愛が可能になる。
Osho
誰かを愛するというのは、
相手に敬意を払うことであり、
搾取することではない。
誰かを愛することは、
いかなる見返りも期待せずに、愛を、
そして自分が持っているすべてのものを
相手に与えるということだ。
そこに少しでも動機があったら、
それは狡猾さであり、情欲だ。
感謝を求めることさえ間違っている。
愛のために愛して初めて、
愛が可能になる。
Osho
すべての宗教は
あなたに利他的になりなさいと説いてきた。
あらゆる馬鹿げた概念に
みずからを捧げなさい。
国旗 ― 朽ちた布きれにすぎない。
あなたはみずからを国家に捧げる ―
国家は空想の産物にすぎない。
なぜなら、地球は
どこも国家に分割されていないからだ。
地図の上で地球を分割するのは、
政治家の狡猾さだ。
Osho
あなたが自分自身のなかに
深く入って行けば行くほど
それだけ自分自身を
見い出すことが少なくなる。
それでも、それこそが
あなたの存在のハートそのものだ。
そしてその逆もあてはまる。
あなたが外へ出て行けば行くほど
それだけあなたは自分自身を
多く見い出すからだーー
それでも、それがあなたの
非存在のハートそのものだ。
これがあなたが行くことのできる
ふたつの道だ。
最初の道は瞑想の道
そして二番目の道はマインドの道だ。
Osho
光明とは何か?
自分自身をあるがままに見る能力のことだ。
私たちのなかに自我などありはしない。
自我は見せかけにすぎない。
私たちがそれをつくった、
私たちが投影した、
それは私たちの幻想、私たちの夢だ。
それは存在しない、
最初から、それはそこにない。
Osho
生きる上でのこまごましたことを、
くつろいだ氣づきを行ってごらん……
そうすれば瞑想が
生とかけ離れたものではなくなる。
瞑想が生からかけ離れたものであるときは
常に、何かが間違っている。
瞑想が生を否定するものになってしまう。
そうなると人は僧院かヒマラヤの洞窟に
行こうと考え始める。
そうなると人は
生から逃げだしたくなる。
なぜなら、
生が瞑想の邪魔をするように思えるからだ。
生は邪魔ではない。
生は瞑想のための機会なのだ。
Osho
OSHO:ハートの体験は楽しむもので疑問に思うものではない
~Experiences of the Heart Should Be Enjoyed Not Questioned
Osho
Oshoのトークをお楽しみください。
日本語字幕が選べます。
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第三身体は、第二身体より大きい、
第二身体より繊細で、
第二身体より高次だ。
動物たちには第二身体はあるが、
第三身体はない。
動物たちはとても生き生きとしている。
Osho
>「群集心理を超えて」Oshoの言葉から